「どうしよう…」
ちまりさんから預かったメモを握りしめたまま、ぼくは一人研究室にいた。
こうして悩んでいる間に一時間は過ぎたが、彼が戻ってくる気配はまだない。
<ガチャリ…>
と、扉が開く音がして、ついついぼくは身構えてしまう。
彼が…戻ってきたのか…?
「あら、お姉様…こんな所にいたんですか…」
入ってきたのは、彼ではなくシュクレだった。
ぼくの心はホッとしたような、落ち着かないような複雑な気持ちになる。
「私がここに来たのが、とても嫌そうですね…やっぱり、あの男を待ってたんですか?」
シュクレ…いや、時雨はぼくにずかずか近付くと、昔ではありえない顔でぼくを睨みつけている。
「そう…だね、ぼくは待ってるんだ彼を…渡さなきゃいけない物があるんだ」
ぼくの心はもう決まっていた。
さっきちまりさんに諦めるのは早いと言ったばかりだけど、これは諦めなんかじゃない…今はそう思い込むしかなかった。
「渡さなきゃいけない物というのは、これの事ですか…お姉様?」
しまった…!
ぼくが少し気を抜いている隙に、握りしめていたちまりさんのメモをシュクレに奪われてしまった。
「か、返すんだシュクレ! それを渡さないと二人は…」
ようやく決めたのに…
こんな所でシュクレに邪魔されるわけにはいかない。
ぼくは神姫だった時の要領で走ってシュクレの側に行こうとするが、シュクレはひょいと身軽にぼくをかわしてしまう。
「ふーん、そうなに大切なものなんですか、こんな紙切れが…どれどれ…」
「や、やめてシュクレ…」
ぼくが握り締めたせいでぐちゃぐちゃになってしまったメモを広げて、シュクレはその内容を読む。
「星ヶ丘公園で今日の11時59分まで待っています…ちまり…これ、お姉様の恋敵のメモじゃないですか…」
「シュクレには関係ないだろう!?」
ぼくは蔑むようにぼくを見るシュクレに、初めて怒りを込めて睨み返した。
「恋敵なんて助ける必要ないじゃないですか…そうでしょう、お姉様?」
シュクレは両手でメモの端っこを摘み、とても悪い顔で笑った。
「やめて! お願いだから、やめてよシュクレ!!」
<びりびりびり…>
ぼくの叫びも虚しく、シュクレはメモを真っ二つに破いてしまった。
「助けてあげると言ってるんですよ、お姉様」
シュクレは楽しそうにメモをびりびりと細かく破り捨てた。
それはぼくの心のようだった。
シュクレによって、バラバラにされた心…許せなかった。
<パンッ…!>
「何をするんだ、シュクレ! シュクレはそんな事をするようなやつじゃなかっただろう!?」
部屋に乾いた音が響く。
ぼくがシュクレの頬を叩いたからだ。
「お姉様が…お姉様が悪いんじゃないですか! あなただって私の心をこのメモのように破り捨てた!」
ぼくに叩かれたシュクレは叩かれた方の頬を抑えながら、悲しそうな怒ったような顔でぼくを見ていた。
その瞳には涙が溜まっている。
「お姉様なんか不幸になればいい…もう知らないっ!」
シュクレはそのまま勢いよく扉を開けて、部屋を出ていってしまった。
「もう不幸だよ、シュクレ…」
そんな言葉が口から零れた。
ぼくはシュクレが破り捨てたちまりさんのメモを一つ一つ丁寧に拾った。
・
・
・
・
「ふぅ…疲れたなぁ…夕食までご一緒になるんて思わなかった…」
ぼくが破れたメモを一生懸命貼り合わせていると、ようやく彼が戻ってきた。
「ただいま、梨乃くん…こんな遅くまでお疲れ様…ん、何をしてるんだい?」
「い、いえ…ちょっと間違えて必要な書類をシュレッターにかけてしまいまして…」
明らかにシュレッターで切ったわけではない紙のパズルをぼくはかき集めながら、彼に咄嗟にそんな嘘をついてしまった。
「そんなに重要な書類なんてこの会社にはないから気にする事ないよ」
彼は疲れているはずなのに、そんな風に優しく気遣ってくれた。
そんな事にいちいち感動してるよりも、今ぼくには伝えなきゃいけない重要な事があるんだ。
「あ、あの…お疲れの所、申し訳ないのですが…」
「どうしたんだい、流瀬くん?」
「悟さまがご不在の時なのですが、ちまりさんがこちらに来られまして…ちまりさんが星ヶ丘公園で待っている事を伝えてほしいと…」
すごく緊張したが、ぼくは必死に彼にメモの内容を伝える。
ちまりさんの思いがちゃんと伝わればいいのだけど…
「え…星ヶ丘公園だって…」
「どうかなさったんですか…?」
公園の名前を聞いて、彼の表情は険しいものに変わる。
「帰りにあの辺りを通ろうとしたんだけど、あそこは夜になると危ない感じの輩がいるから通るのはやめておけと近くの人に言われて…」
「ちまりさんがそちらに向かわれたのは、夕方頃だと思います…」
「何だって!? ちまりちゃんが危ないぞ!」
彼は帰ってきて座る事すらなく、そのまま走って部屋を出て行ってしまった。
ぼくもちまりさんが心配でたまらないので、彼を必死に追い掛ける。
「ちまりさん…どうか無事でいて…」
ぼくは神姫の頃に彼にもらった、髪飾り型通信機 ・クァドリラテールがついたペンダントを握り締めた。
夜の暗さが今のぼくにはとても恐ろしく感じる。
ちまりさんは果たして無事でいてくれるのだろうか…
ぼくはたとえ自分がどうなっても、ちまりさんを助けようと心に決めた。
だって、彼女はぼくにとって初めての人間の友達なのだから……。
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